เข้าสู่ระบบ朝起きたら、身体がだるかった。
頭が重い。関節が痛い。喉の奥がひりひりする。この感覚は知っている。
「あー……やっちまったな」
電子音が鳴るまでの一分間がやけに長く感じた。
鏡に映った自分の顔はひどかった。目の下が赤く、唇も乾いている。体温計を脇に挟んで待つ。電子音が鳴るまでの一分間が長い。ピピッと鳴って画面を見ると、三十八度二分だった。
「……だよな」
原因は心当たりがある。昨日の帰り道だ。
夕方から急に雨が降りだした。六月に入ったばかりで、梅雨の走りのような空だった。折りたたみ傘はバッグに入れてあった。けれど最寄り駅を出たところで、軒下に雨宿りしている大学生ぐらいの青年がいた。傘を持っていない様子で、スマートフォンを見ながら困った顔をしていた。薄着で、腕をさすっていた。
「よかったらこれ使いな」
気づいたら傘を差し出していた。青年は驚いた顔をしたが、直が「いいから」と言って押し付ける
どれくらいの時間が経ったのだろう。 周りの声も、キーボードの音も、電話の呼び出し音も、なにも聞こえなかった。自分の周りだけが切り取られて、別の場所に放り出されたような感覚だった。 ようやく涙がおさまった。顔を上げると、手元の紙袋がしわくちゃになっていた。握りしめすぎたのだ。目元を手の甲で拭った。シャツの袖が濡れていた。 直はよろよろと立ち上がり、自分の席に戻った。椅子に座って、深呼吸をした。紙袋を膝の上に乗せて、そっと口を開いた。 中にはいくつかのものが入っていた。◆ 最初に目に入ったのは、ベーカリーのショップカードだった。直が好きなベーカリーのものだ。駅前にある、ちょっとだけ高いけどサンドイッチがうまい店。理人はいつもここのサンドイッチを買ってきてくれた。管理がはじまった最初の朝、直が会社に泊まった翌朝。理人が持ってきてくれたのも、ここのサンドイッチだった。BLTとタマゴサンド。直の好物だ。 ショップカードの裏のスタンプ欄を見た。あと二つで満タンになるところまで押してある。一回の購入で一つスタンプがつくのだとしたら、理人はここに何十回も通ったことになる。直のために。 直が好きだと言ったわけでもないのに。最初から、理人は直の好みを知っていた。サンドイッチの種類も、弁当の味付けも、服のサイズも。聞かれたことなんてない。なのに全部知っていた。ずっと不思議だった。けれど、深く考えなかった。理人が気が利く人間だからだろう、ぐらいにしか思っていなかった。 ——なんで、俺の好みを知ってたんだ。 その疑問が、今、紙袋の中身と一緒に蘇ってきた。 次に、使い込まれたメモ帳を手に取った。表紙がくたびれている。何度も開いたのだろう。角が丸くなっている。ページをめくった。 直のことが、びっしりと書かれていた。『卵焼きは甘めが好み』『煮物は薄味がいい。醤油が強いと残す』『朝は弱い。八時に迎えに行くのがベスト』『食事のバランスが著しく悪い。野菜が足りていない』『仕事の効率を上げるためには、食事面
十日あればなんとかなると思っていた。 甘かった。 一度決まった人事は個人的な理由では覆らない。直が「行かないでくれ」と言ったところで、辞令は辞令だ。 理人は引き継ぎと取引先への挨拶で、毎日忙しかった。朝早く出社し、夜遅く帰ってくる。あの夜、身体を重ねて以来、まともに顔を合わせていない。翌朝、理人は朝食とメモだけ残して出ていった。あれからもう十日近く経つのに、あの夜のことについて一言も交わしていない。 すれ違いざまに目が合うことはあった。けれど理人はすぐに目を逸らした。直も声をかけられなかった。あの夜のことを理人がどう思っているのか、わからなかった。なかったことにしようとしているのか。それとも、直と同じように、言葉にできないでいるのか。 理人が大阪に行くまでに、きちんと「好きだ」と伝えたい。けれど、それだけなのに、その三文字が出てこない。あの夜、身体では伝えた。けれど言葉にしていない。言葉にしなければ、伝わったことにはならない。 そしてとうとう、理人が本社を離れる前日になった。◆ その日、直は午後から取引先との打ち合わせで外出していた。今日こそは話す時間を作ろうと思っていたのに、打ち合わせが長引いた。 夕方、会社に戻ると理人が帰り支度をしていた。明日から大阪に出社するのだ。今日は早めに帰って準備をするのだろう。 直は自分の席に鞄を置いて、理人のほうを見た。 理人が帰り支度の手を止めて、直を見た。あの夜以来、初めてまっすぐ目が合った。「先輩。今日、一緒に帰りませんか」「……え?」 理人から声をかけられるとは思っていなかった。あのときの「承知いたしました」以来、理人から業務外の話をされるのは初めてだった。「少し、先輩と話したいんです」 理人の声がいつもと違った。冷たい敬語ではなく、丁寧だけれどどこかやわらかい。距離を置いてから一度も聞いていなかった声だ。以前の、直に向けられた声。それが戻ってきた。たった一言で、胸がぎゅっと締まった。「……すぐ
理人が大阪に異動するまで、あと二週間。営業日でいえば十日だ。 その中で、絶対に理人と話す。 あれだけ一緒にいたのに、理人の住んでいるマンションすら知らない。家を知っていれば待ち伏せもできるのに、それすらできない。自分がどれだけ一方的に甘えていたかが、ここにきてまた突きつけられる。 仕方がないので自分の仕事をこなしつつ、常に斜め後ろの席へ意識を向けた。理人が帰る瞬間を逃さない。それだけに集中した。 夕方。理人が帰り支度を始めた。直も急いで鞄を掴んで席を立った。 エレベーターホールに着くと、ちょうどドアが閉まるところだった。直はその隙間に身体を滑り込ませた。 中には理人だけがいた。理人が一瞬目を見開いたが、すぐに無表情に戻った。「話がある」「俺はありません」「お前になくても、俺にはある」 理人はなにも言わなかった。エレベーターが一階に着く。ドアが開いた瞬間、理人は大股で出口に向かった。「待てって」 直は追いかけた。ビルを出て、駅へ向かう道を進んでいく。理人の歩幅は広くて速い。直は走って追いついて、腕を掴んだ。「なんで逃げるんだよ」「逃げてません。帰っているだけです」「だから、話があるって言ってるだろ!」 声が大きくなった。通りがかりの人がちらりとこちらを見た。 理人がため息をついた。「……ここでは目立ちます。うちに来てください。十分ぐらいで着きます」「……おう」 直は理人の腕を離せなかった。手を離せば逃げてしまいそうだったからだ。理人はそれを振り払わなかった。ふたりは黙って歩いた。◆ 理人のマンションは、本当に会社から近かった。 こんなに近くに住んでいるのに、直のアパートまで毎朝三十分かけて迎えに来てくれていた。それを思うと、胸が締めつけられた。 部屋に入った。1LDKの部屋は、きれいに片付いていた。物が少ないのが理人らしい。生活
理人に会うと心に決めた。 それなのに、会えなかった。 本当に同じ会社にいるのかと疑いたくなるほど、理人とはすれ違いばかりだった。理人の席は直の斜め後ろだ。毎日、同じオフィスにいる。わずか数メートルの距離だ。なのに、その数メートルが果てしなく遠い。 理人に会うには、まずは自分のことをしっかりこなさなければならない。ボロボロの姿で会いに行っても、なにも伝わらない。 朝、つらい身体を起こして出社する。恋を自覚してから、直は生活を立て直そうとしていた。おにぎりと味噌汁ぐらいは食べる。寝癖は直す。ヨレた服は避ける。ボロボロのまま理人の前に立ちたくなかった。 理人はもう席にいる。声をかけようとするが、直が近づくと理人が席を立つ。電話がかかってきたのか、ほかに用事があるのか。判断がつかない。けれど、タイミングがよすぎる。直が近づくたびに、理人がいなくなる。 昼、理人の席に行くと外出中だった。隣の席の同僚に聞くと「午後まで戻りません」と言われた。帰社を待って夕方に行くと、すでに退勤した後だった。以前ならスケジュール共有アプリで理人の予定を確認できた。今はそのアプリの理人の欄が真っ白だ。理人がいつ出社して、いつ外出して、いつ帰社するのか。なにもわからない。 火曜日。朝いちばんに理人の席に行った。理人が顔を上げた。一瞬だけ目が合った。「神谷、ちょっと話――」「申し訳ありません。九時から外出です」 理人は鞄を持って立ち上がった。逃げるように、ではなく、あくまで自然に。予定があるから席を立つ。それだけのことだ。声も表情も、あの日以来ずっと変わらない。言葉遣いは、他人行儀な敬語のままだ。けれど直には、避けられているとしか思えなかった。 水曜日。帰りの時間を狙った。退勤の気配を察して、直も立ち上がった。けれどエレベーターホールに着いたとき、エレベーターのドアが閉まるところだった。隙間から、中に理人がいるのが見えた。目が合った。理人の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。けれどドアは閉まった。直は閉じたドアの前に立ち尽くした。「……なんだよ」 ガックリと肩を落とした
もうボロボロだ。 理人に会えたのに、完全に拒絶された。「距離を置いたほうがいいと思っています」。あの冷たい声がまだ耳に残っている。 けれど、一度だけ目が合った。あの一瞬、理人の瞳の奥になにかが見えた気がした。「簡単じゃないんです」。あの声は、距離を置きたい人間の声じゃなかった。 それがなにかわからない。直はぐしゃっと頭を抱えた。 どうしたらいいんだ。どうしたらあいつは戻ってくるんだ。どうしたら。 考えてもなにも浮かんでこない。ただ、胸の奥がずっと痛い。◆ 浮かない顔で仕事をしていると、水城がやってきた。「夏目。お前なんだよ、そのツラ」「……そんなひどいか」「ひでえよ。死にそうな顔してる」「……マジか」「ちゃんと飯食ってんのか」 斜め後ろに理人がいる。食べられていないとは言えなかった。「……それなりに」「嘘つけ。まあいいわ。今日、帰りに飯食って帰るか」「……おう」「頼んだぞ。死なれたら寝覚め悪いからな」 水城がぽんと肩を叩いた。 仕事を終えて、水城と会社の近くの居酒屋に入った。カウンター席に並んで座った。まともな食事は相沢と定食屋に行って以来かもしれない。「とりあえずビールな。あと焼き鳥と枝豆と……お前なに食いたい」「なんでもいい」「なんでもいいって言うやつが一番困るんだよ。じゃあ唐揚げと冷奴も頼むぞ」 ビールが来て、グラスを合わせた。ひと口飲んだ。しばらく酒を飲んでいなかったからか、アルコールが身体に染み込んでいくのがわかった。水城が次々と料理を注文して、直の前に並べてくれた。「食え。痩せすぎだ。お前、何キロ落ちた」「……わかんねえ。体重計乗ってない」「乗れよ。栄養失調で倒れたらシャレ
理人と距離を置いて一か月が経った。 生活は、もう手がつけられないほど崩れていた。 朝はフレックスぎりぎりまで寝て、朝食は食べない。昼はおにぎりかパンだけで済ませる。残業が当たり前になり、毎日終電で帰る。理人に管理されていたころの規則正しい生活が嘘のようだった。 その日もなんとか終電で帰って、シャワーも浴びずにベッドに倒れ込んだ。梅雨が明けて、夏本番だ。汗をかいた身体のまま眠るのは気持ち悪いが、それよりも少しでも長く眠りたかった。 朝、重たい身体を起こして脱衣所に向かった。鏡を見て、ぎょっとした。目の下に真っ黒なくま。肌に艶がない。髪もぱさぱさだ。一気に五歳ぐらい老けて見える。理人に管理されていたころは、「最近肌きれいになったね」と梨沙に言われたこともあったのに。「……ひでえ顔」 シャワーを浴びて部屋に戻ると、朝の光が散らかった部屋を照らしていた。足の踏み場がない。雑誌が床に散らばり、ゴミ箱からゴミが溢れている。キッチンにはビールの空き缶がいくつも並んでいた。シンクには三日分の食器。洗濯物は椅子とベッドの上に山になっている。「ゴミ屋敷じゃねえか……」 荒れ果てた部屋を見て苦笑いした。 ――先輩は時間があっても掃除しないんですね。 脳裏に理人の声が響いた。あきれたような、けれどどこかやさしい声。もう聞けない声。 そうだよ。どうせ料理も掃除もできない。悪いかよ。 頭の中で理人に文句を言った。言い返す相手は、もういないのに。◆ 会社では、理人は一貫して距離を保っていた。業務連絡以外は一切話しかけてこない。目も合わせない。すれ違っても、直が存在しないかのように通り過ぎる。 一か月前までは毎朝迎えに来てくれて、弁当を持ってきてくれて、三時にはコーヒーを淹れてくれて、帰りは一緒に歩いてくれた。それが全部なくなった。もう一か月も。 社内では「あのふたりは終わった」という噂が流れていた。それを聞いたとき、直は苦笑いした。始まってもいないのに、終わるもなにもない。けれど、